いだてん 最終回 あらすじと感想 時間よ止まれ~クドカン、サイコー!
宮藤官九郎氏脚本のNHK大河ドラマ、【いだてん~東京オリムピック噺~】もついに最終回を迎えました。いや~この1年を振り返るにふさわしい盛りだくさんの内容でしたね
。おばさんも、四三と一緒に走り、田畑と一緒にクルクル回った一年だったと実に感慨深かったです
。
以下、最終回「時間よ止まれ」のネタバレのあらすじです。
1964年10月10日~オリンピック開会式当日。田畑と四三は開始5時間も前から国立競技場に駆け付けていました
。四三は背広姿にマラソン足袋といういでたちで、治五郎からもらったという手紙を田畑に渡します。そこには「是非聖火ランナーを!
」と書かれていました。結局は坂井を認めざるを得なかったものの、やっぱり無念でならないようです
。
その坂井は、逆に、なぜ僕が聖火ランナーなど務めねばならぬのか、といまだに不満を抱いていました。
その様子を見た四三は、ちゃんぽん屋のオヤジ(カンニング竹山)に頼んで大鍋に水をもらい、坂井に水をぶっかけます。
例水浴たい!何も考えずに走るがよかっ!!
これで坂井は心機一転、何の迷いもなく走ることができたのだそう。
そんな坂井に聖火トーチを渡した女性ランナー・鈴木久美江(走り幅跳びの選手だがオリンピックには不出場)の随走者のひとりに、あの五りんがいたそうです。五りんはこれを走ることで、志ん生に許してもらおうとしたらしい
。
競技場では、日本を含め、参加93か国が胸を張って誇らしげに歩いていました。残念ながらインドネシアの選手団は、アジア大会で資格停止処分になった選手が含まれていたことから参加できなくなったそうです。通訳として訪日したアレンは、これは田畑のオリンピックだからどうしても出たかったと非常に悔しそうでした
。
その行進を見守る観客たちは、懐かしい顔が勢ぞろいです。その誰もが「あの時」を思い出していたのだそう
。小松を含めた3万人の若い兵士たちを死地に送り出した時のことです
。あの時は土砂降りだった。今日は晴れて本当に良かった
。
あの時、ここで必ずオリンピックを開くと誓った田畑は、大声で「ざまあみろ!」と叫びました。涙ぐんでいた四三はおもむろに立ち上がり、バンザ~イっ!!と叫び出します
。それにつられて皆次々と立ち上がり、バンザ~イ!バンザ~イ!と唱和しました
。
あの時は、国家権力に無理強いされた「バンザイ」で、なんとかそこに若者たちの無事な帰国を願う気持ちを密かに込めたものでしたが、今回は誰憚ることないお祝いのバンザイです。世界中の秋晴れを集めたかのような晴天に、割れんばかりのバンザイが響き渡りました
。
その頃、バー・ローズでは、皆でカラーテレビを囲んで観戦しています。マダムが「雨」と予想したので、晴れを確信した田畑が買ってくれたのだそうです。いやいや、わざと外した、ってのはウソでしょ
。
そして競技場に坂井が駆け込んできました。四三も、治五郎の遺影を持った可児も、涙を浮かべながら点火の瞬間を見守ります
。うん、でかした!坂井君でよかった!!
また、明日は雨で出番はなしと大酒を飲んでしまった自衛隊~ブルーインパルスは、慌てて出動したそうです。それが何と見事な五輪を描いたのには驚きましたね~
。本番に強いタイプなのですね
。
競技場には来れなかった人々も、皆、空を見上げて感動していたそうです。その頃志ん生は、クドカンの運転するタクシーに乗っていました
。最後はやっぱり出てきましたね~。本当にお疲れさまでした
。素晴らしい作品をありがとう!!
志ん生のその日の演目は「富久」です。またオリンピックに合わせて走りに走りましたね~。師匠の許しをもらった五りんは、今度は妻がお産をしている病院へと向かったそうです
。
開会式が終わると早速競技が開始されました。注目の男子マラソンは、円谷幸吉が堂々の3位~銅メダルを獲得します
。
マラソンをテレビ中継するというのは当時では画期的なことでしたが、何せ中継車が1台しかないのでずっと1位のアベベしか映らなかったところ、競技場に入ってきていきなり円谷が見えた時は、皆で大感激したそうです
。
ま、播磨屋の黒坂辛作だけは、黒坂がプレゼントしたマラソン足袋を履いてオリンピックを走ると言ったアベベが足袋を履いていなかったのが大いに不満だったようですが。
もちろん女子バレーも期待通りの活躍でした。その後大松は、約束通り、河西を始めとする選手たちの世話を焼き、河西の結婚式では、亡くなった父親に代わって親族の列に並んだそうです
。
そして閉会式の直前には、参加国の北ローデシアが独立して「ザンビア」になったという出来事もあったそうで、選手たちは、閉会式にはぜひ「ザンビア」の国旗を掲げたいと、田畑に詰め寄ったのだそう。もうそれだけ田畑が皆の間で有名になっていたのがまた可笑しいですね
。
今からでは無理だという岩田に対し、田畑は、今日は彼らの独立記念日だ、こういうところをおろそかにしないのが平和の祭典じゃないのか?と迫りました。
そこへ、国旗担当の吹浦が「ザンビア」の旗を持って駆け込んできます。さ~すがは国旗のスペシャリストですね
。彼は各国の旗を参加競技X3(金・銀・銅)だけ用意していたそうです
。
すべての競技が終わると、選手たちは一様にその解放感から大騒ぎし始めました。肩を組み、抱き合い、酔っぱらって雄たけびを上げるなどと収集が付かなかったそうです
。松澤は頭を抱えてもうおしまいだと嘆いたそう
。
ところが、その自由さが各国から称賛を浴びました。彼らの姿には、国境を越え、宗教を超えた美しさが感じられたそうです
。これこそが、田畑の望んでいたオリンピックですよね~満面の笑みを浮かべた顔、顔、顔
。
感無量の表情を浮かべていた田畑の前に治五郎が現れました。改めて礼を言うよ。ありがとう
。
そこへ岩田がストップウォッチを手にやってきます。ようやく終わったからお守りを返しに来たと語る岩田に、田畑もまた改まって感謝をしました。岩田君、改めて君に礼を言うよ。ありがとう!
それから3年後、ついに四三のもとにストックホルムからの招待状が届きました。四三はいまだにゴールをしていない「消えた日本人」だから、改めてゴールをしに来てほしいと言われたそうです
。スウェーデン人の優しいユーモアが実に嬉しかったですね~
。
それで四三はスヤを連れてストックホルムへ出かけ、55年ぶりに「ゴール」したそうです。その記録は「54年8カ月6日5時間32分20秒3」だそうですよ。四三は「走っている間に妻を娶り、6人の子と10人の孫が生まれました」と語ったそうです
。
また田畑はカッパに戻り、ストップウォッチ片手にぐるぐる回り、日本水泳連盟名誉会長となって後進の指導に当たったそうです。
あ~本当に楽しい1年間でした。
クドカンのいだてんは絶品だ
天国にいる、スポーツ大好きだった母にそうハガキを送りたい気分で一杯です。
最高でしたね!
今晩は~
最終回は又素晴らしい晴天に恵まれてオリンピックのかおとかおが世界中から集結しました。
当時のオリンピックを知らない私達でさえその感動に胸を熱くさせられました。
この1年間共に泣き笑い、走り、クルクル回り(パクりました)オリンピックに参加してました。
空に描かれたブルーインパルスの5輪の環は見てみたいなぁ!
あの悲しい壮行会とは全然違う心からの万歳に私も唱和しました(ばんざーい!)
素晴らしい開会式、そして鬼の大松監督率いる女子バレーチームの勝負強さ!
閉会式ではただスポーツを愛するアスリート達の思いがけないどんちゃん騒ぎ!いいねぇ~
話すべきことはこんさんが全て書いて下さったそのまま同じ気持ちです。
ストックホルムから振り返ると後ろには55年の歴史が刻まれていたのですね。
いだてん四三様ちゃんと下げもいれての話にクスリと笑わされました。
こうしてクドカンの熱情とその取材力の凄さにやられました。もちろん最高!です\(=゚▽゚=)/
PS:こんさん1年間素晴らしいブログ提供有難うございました。又( `・∀・´)ノヨロシクです。